2018年08月28日 沖縄旅行38(海軍司令部跡)

<トンネル>
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那覇市内の高台にある、
帝国海軍司令部跡を見学しました。

終了1時間前でしたので、足早の見学となりました。

終了間際とはいえ、
他に見学者がほとんどいなかったのは残念です。

各基地もそうですが、
華やかな観光地以外も、
日本人として見学して欲しいところです。

 

<入口は千羽鶴

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入り口には、千羽鶴がたくさん飾られています。


<深い>

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入り口から結構下ります。
人力で、
小山に深い地下壕を構築したのは大変だったと思います。

米軍上陸後に掘ったのではなく、
早くから準備していたのでしょう。

戦艦の主砲や1トン爆弾にも耐える深い壕です。



<指令室>
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天井など、人力で掘ったあとがそのままです。


<指令室>
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案内板に、当時の様子が描かれています。
 



<通路>

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壁はツルハシなどで削った跡がそのまま残っています。

コンクリートで固めていない個所では、
壁がむき出しです。
土ではなく、硬いです。


<自決時の手榴弾跡>

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司令部員が、
榴弾で自決した時の破片の跡が壁に残っています。

 

<主通路>

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メインの通路は、
天井部分がコンクリートで覆われています。

見学用に整備されているとこともあるようです。

 

<通路や小部屋>

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通路や小部屋があちこちにあります。


<大田司令官の電文>
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有名な大田司令の電文です。
県知事には通信手段がなく、
沖縄県民の様子を本土へ報告できないため、
県知事に代わって報告した文書です。

大田司令は、
摩文仁の丘への撤退命令に従わず、
この海軍司令部陣地で最後まで戦いました。

陣地戦では、
弾薬が保管されている場所にとどまるという、
玉砕戦の基本を守ったのだと思います。
 


<フラッシュ>
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フラッシュをたいているので明るいですが、
実際には電球のみでうす暗いです。
 
明るくせずに、
当時の雰囲気を出しているのだと思います。


<発電機置き場跡>
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発電機を置いてあった場所です。
専用の廃気抗はなく、
排ガスが充満していたと思われます。

燃料や発電量が限られる中、
かなり暗い状態であったと思われます。


<主要通路>

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主要通路です。


<部屋>
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部屋や支道がいくつもあります。


<支道への分岐>
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支道への分岐です。
細くなっています。


<長いです>
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湧の背中の通り、結構な距離があります。


下士官室>

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下士官室です。
狭い場所にたくさんの下士官が入っており、
立ったまま寝て、待機していたと説明されています。

空気も相当淀んでいたと思います。

 
<支道>
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外へ出る支道です。
かなり狭いです。

両側は石灰岩で、
人力で掘るのは大変だったと思います。


 

<出口>

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出口のひとつです。
ここから、夜になると斬り込み隊が編成され、
出撃後は、ほとんどが帰らなかったようです。

絵では、兵は銃に着剣、士官は手に日本刀と、
機械化された米軍とは大きな差があります。

 

<地図>

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この海軍司令部跡は、
海軍の小禄飛行場近くに位置する高台にあります。

飛行場は上陸前に使用不能となっていましたが、
重要な戦略拠点でした。

なお、米軍は、激戦の末、先に伊江島を抑え、
飛行場を整備して、すぐに使用を開始しています。


<出口>
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出口です。
当時は艦砲射撃や空爆などで、
むき出しの中、偽装されていたことと思います。


<出口は売店
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終了間際の時間でしたので、売店は締まっていました。

外へ出ると暑いです。
疲れたのか、湧・彩はしばらくこしかけていました。

中学生には、
よくわからないことも多かったかと思いますが、
本や教科書のことを実際に見た意義はあると思います。

これからの授業などでも、思い出すこともあるでしょう。

 

 
<眺め>
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高台の頂上付近なので、見晴らしがよいです。

沖縄戦当時は、
大変な眺めになっていたかと思われます。

平和な時代に感謝です。