2016年01月23日 シンガポール国立博物館 (昭南島)

昭南島コーナー>
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昭南島(戦時中のシンガポールの日本語の呼び方)
コーナーが大きな1区画を使って展示されています。

入り口の表示は
昭南島時代のサバイブ(生き延びた)」くらいの意味でしょうか。

日本の占領下は歓迎されていないことが読み取れる
表示です。

 
昭南島の説明>
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支那事変、マレー作戦の70日を経て、
シンガポールを日本が占領したこと、
昭南島とは「日本の南の島」という意味であること
などが説明されています。


<日の丸>
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従軍した方の持ち物でしょうか。
署名がぐるっとされています。

 
<九五式軽戦車(レプリカ)>
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九五式軽戦車です。
走破性に優れ、
マレー作戦での電撃戦で2000Km近くを走破しました。
37㎜砲で戦車戦ではなく、
歩兵や塹壕、陣地戦向きの車両のようです。
大戦後半には太平洋の島々で、苦戦を強いられました。
 
以前読んだ、島田戦車隊長の
「サムライ戦車隊長―島田戦車隊奮戦す」が、
思い出されました。
 

<説明文>
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九五式軽戦車の説明文です。

マレー作戦の後、シンガポールに至り、
シンガポール北部から数日間でブテキマに至ったと
説明されています。

車両はレプリカとの説明がありますが、
本物そっくりに実物大で作られており、
頑張った感じがします。

個人的には同時に活躍した九七式中戦車
お願いしたいです。


<銀輪兵の自転車>
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当時、自転車に乗る歩兵を銀輪兵と呼びました。

かなりの数のようで、
午前中に訪れたフォード工場跡にも
展示してありました。

 
<当時のポスター>
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「勝って兜の緒を締めよ。陸軍省」とのことですが、
その後、実力以上に戦線を延ばしすぎて、
兵站を維持できずに、
敗戦へと向かうことになりました。


<降伏の机>
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山下中将とパーシバル中将とが交渉したテーブルです。

前中に訪れたフォード工場跡の、
シンガポール降伏時のテーブルはレプリカでしたが、
国立博物館に展示されているテーブルは
本物との表示がありました。


<降伏時の様子>
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当時の様子が流されていました。


<歴史の回路?>
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通路を進むと、時代が進んでいきます。


<市内が燃える様子>
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市内に火の手が上がる様子です。

 
<食料配給所>
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食料が配給制になったのでしょうか。

混乱を避けるため、
当時の市街地へ兵が入場することは
強く禁止されていたと
従軍兵士の手記で読んだことがあります。


軍票
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札束状態の軍票です。
こんなものをバンバン発行すれば、
すぐにインフレになることは、素人でもわかります。


<マッチ箱のデザイン>
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マッチ箱のデザインのようです。


<日本語講座の教科書>
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保存状態がよいです。
 
 
<教科書の中身>
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ローマ字とカタカナで記載されています。

シンガポール以外でも広く日本語を教えたようで、
太平洋の島々では、
今でも歌などが伝えられているところが、
いくつもあるようです。


<ポスター>
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シンガポール市内で張られていたかどうかは疑問です。

本土か、
占領地域でも日本人向けのもののように見えます。
 


<熱心にみいる人々>
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他の展示会場と比べて、
人は少ないですが、
現地の人と思われる軽装人があちこちで、
熱心に展示物をみていました。

日本の近隣国とは違い、
先進国として、誇張などもない公平な説明や展示物と
感じました。

それでもこの歴史の事実を日本人はもう少し知り、
勉強すべきと感じました。


<マッチ箱のデザイン?>
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当時のものかどうか不明です。
後世のもののようにも見えます。

フォード工場跡地でも
戦艦大和のポスターがありました。
 
秘密兵器であった戦艦大和の名前は、
当時の日本人でも一般人は知らなかったはずです。


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歩いてFort Canning Park内の
Battle Box (バトル・ボックス)へ向かいました。

博物館内にいる間にスコールが去ったようです。